2012年09月16日

「コッホ先生と僕らの革命」 “ドイツ・サッカーの父”、新たな扉を開く

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 第一次世界大戦前の1874年。帝国主義ドイツでは反英感情が高まり、イギリス生まれのサッカーは“反社会的”とされていた。そんな中、名門カタリネウム校にドイツ初の英語教師コンラート・コッホが、イギリスから着任した。生徒のイギリス=英語に対する強い偏見を払拭するため、コッホは授業にサッカーを取り入れる。子供たちは戸惑いながらも、サッカーの虜(とりこ)になっていく。コッホの型破りな授業は大人を敵に回すことになるが、それまで意思を持つことを許されなかった子供たちが立ち上がった──。

 “ドイツ・サッカーの父”、コンラート・コッホ(1848〜1911)の実話を基にしたドイツ映画だ。コッホ役には「グッバイ、レーニン」で注目された若手俳優ダニエル・ブリュール。監督はテレビ作品制作に携わる一方、大学などで教鞭をとるセバスチャン・グロブラー。今回が映画監督デビューとなる。

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 コッホが馬車に揺られ、カタリネウム校に到着する。進歩的な考えのメアフェルト校長が、コッホを留学先の英オックスフォードから呼び戻したのだ。4年ぶりに母校に帰ってきたコッホの手には、革製のサッカーボールがあった。一方、教室でコッホを待っていたのは、生徒たちのイギリスに対する強い偏見だった。

 帝国主義的な思考で支配する教師と、服従する生徒たちを冒頭で描く。授業に使う指示棒が何者かにノコギリで切られ、歴史教師のボッシュが「誰の仕業だ」と激高してコッホの教室に飛び込んでくる。級長のハートゥングが「ヨスト・ボーンシュテッドです」と答える。否定するヨストのかばんからノコギリが見つかった。ハートゥングが仕組んだいたずらで、ヨストは濡れ衣を着せられたのだ。監督は冒頭で教室の力関係を提示する。

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 ハートゥングの父は地元の名士。キリスト友会会長を務め、カタリネウム校でも絶大な権限を持つ。父は「ドイツ帝国の教育は、秩序と規律と服従がすべて」と考え、進歩的な教育を目指すコッホと対立する。一方、濡れ衣を着せられたヨストは、教室で唯一の労働者階級出身。奨学金制度でなんとか学校に通えているものの、ハートゥングらにいじめられている。物語はこの二人の生徒を中心に展開する。

 英語にまったく興味を示さない生徒たちを、コッホは体育館に連れ出し、サッカーボールを蹴ってみせる。体育の授業といえば体操だけ、ボールといえばリハビリに使う鉛入り医療用ボールしか触ったことがない生徒たちは、驚きの表情を見せる。見よう見まねで蹴るうち、快感を覚えサッカーに夢中になり、サッカー用語を通して英語に興味を示し、英語の授業を熱心に受けるようになる。

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 ドイツ帝国主義のもと、規律と服従を強制されていた生徒の前に現れたのは、イギリス帰りの進歩的教育を目指す型破りな教師だった。生徒は教師とサッカーに出合い、自立心が芽生え、革命を起こす。一見穏やかに見える19世紀末のドイツが舞台だが、貧富の差がドラマに暗い影を落としている。豪邸に暮らすハートゥングは使用人の少女と恋をするが、父親にとがめられ事故を起こす。サッカーで才能を開花させたヨストも、事故が原因で退学処分に。大人たちと対立するコッホも学校を去ることになり、クラスは危機を迎える。

 敵味方関係なく敬意を払う“フェアプレー”精神、仲間を思いやる“チームプレー”。サッカーを通して自立と成長を促すコッホと、彼と出会い解放されていく生徒の姿はすがすがしい。派手な作品ではないが、堅実な作りで心に染み入った。

(文・藤枝正稔)

「コッホ先生と僕らの革命」(2011年、ドイツ)

監督:セバスチャン・グロブラー
出演:ダニエル・ブリュール、ブルクハルト・クラウスナー、ユストゥス・フォン・ドーナニー、トマス・ティーマ

9月15日、TOHOシネマズシャンテほかで全国順次公開。作品の詳細は公式サイトまで。

http://kakumei.gaga.ne.jp/

作品写真:(C)2011 DEUTSCHFILM / CUCKOO CLOCK ENTERTAINMENT / SENATOR FILM PRODUKTION
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2012年02月29日

「ピナ・バウシュ 夢の教室」 踊りを知らぬ少年少女 自己を放ち、初の舞台へ

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 2009年に逝去したドイツの天才舞踊家、ピナ・バウシュ。ヴッパタール舞踊団の芸術監督として、踊りと演劇を融合した独自の表現スタイル“タンツ・テアター(ダンス・シアター)”を確立し、数々の先鋭的作品を生み出したカリスマだ。

 彼女の代表作の一つに「コンタクトホーフ」がある。1978年に初演されて高い評価を受けた作品で、00年には65歳以上のアマチュアの男女をキャスティングして上演。07年には14〜17歳の、これもアマチュアの少年少女で上演され、いずれも大成功を収めている。

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 「ピナ・バウシュ 夢の教室」は、07年版「コンタクトホーフ」の練習風景を収めたドキュメンタリーである。ヴィム・ヴェンダースの「Pina ピナ・バウシュ 躍り続けるいのち」(10)にも収められたが、“出会い”を求める男女のグループが、互いにさまざま方法でアピールし合い、駆け引きをし合う様子を描く演目だ。

 男性が女性の体に触れたり、男女が身体を密着させたり――。バウシュの作品にはそんな性的な表現が珍しくないが、「コンタクトホーフ」も例外ではない。それなりに恋愛経験もある大人の男女が演じることを前提にした作品だ。それを、初心なミドルティーンの生徒たちに演じさせる。ずいぶん挑戦的な試みである。

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 彼らは純然たるアマチュアだ。つまり舞台で演じたり踊ったりした経験がない。しかも、大半の者は恋愛も未経験。そんな少年少女たちを、ヴッパタール舞踊団のメンバー二人が、いかに指導し、どう鍛え上げていくのか。

 「コンタクトホーフ」は、他の演目のように高度な技術はさほど要求されない。代わりに徹底的な内面の解放が求められる。大事なのは、遠慮や羞恥といった感情を捨て去ることだ。しかし、思春期の男女にとっては容易なことではない。

 大声で笑う。異性の体に触る。衣服を脱ぐ――。シャイな少年少女たちが、数々の難題を克服しながら、次第に心の壁を崩し、自由な表現者へと脱皮していく過程は、スリリングかつ感動的だ。また、滅多に公開されないであろうピナ・バウシュ作品の舞台裏や練習風景が記録されている点で、さらには、バウシュの生前の姿を収めた最後の公式映像という点でも、貴重なドキュメンタリーである。

(文・沢宮亘理)

「ピナ・バウシュ 夢の教室」(2010年、ドイツ)

監督:アン・リンセル
出演:ピナ・バウシュ、ベネディクト・ビリエ、ジョセフィン=アン・エンディコット

3月3日、ユーロスペース、ヒューマントラストシネマ有楽町ほかで全国順次公開。作品の詳細は公式サイトまで。

http://www.pina-yume.com/

作品写真:(c)TAG/TRAUM 2010
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2011年11月04日

第24回東京国際映画祭 「Pina ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち」 ヴィム・ヴェンダース監督舞台あいさつ

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「あれほど美しいものを、私は見たことがなかった」
 第24回東京国際映画祭で、天才舞踊家の世界を描いた3D映画「Pina ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち」が10月25日、特別招待作品として上映され、ヴィム・ヴェンダース監督が舞台あいさつした。ヴェンダース監督は、今は亡きピナについて「もう一緒に映画を作ることはできないが、ピナのダンサーたちとともに、ピナのために、この作品を作るべきだと思った」と語った。

 「1985年に初めてピナの舞台を見た瞬間から、彼女の映画を作りたいと思った。あれほど美しいものを、それまで見たことがなかった。翌日ピナに会いに行った私は、興奮して“あなたの映画を作らせてほしい”と願い出た。ピナも乗り気だった」

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 上映前の舞台に登場したヴェンダース監督は、映画化のきっかけと、バウシュとの出会いから話し始めた。

 「しかし、自分から映画化を切り出しながら、私はピナの舞踊をどう映像にすべきか、よい方法が思いつかず頭を抱えていた。ピナは会うたびに“早く映画を作りましょう”と言ってくれるが、私は壁にぶつかってしまった。ヒントを求めていろいろなダンス映画も見てみた。しかし、答えは見つからなかった。ピナは“準備できた?”と尋ねる。私は“ノー”と返す。そんなやり取りが何年も繰り返された」

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「ヒントはU2のコンサート映像。すぐにピナに電話した」
 20年後、ヴェンダース監督がようやく見つけた答え。それは3Dだった。

 「1960年代に3D映画が登場したが、すぐに廃れた。私もすっかり忘れていた。ところが、4年半ほど前に見た新しいデジタル3D映画に、とても感銘を受けた。それはU2のコンサート・フィルムだった」

 「これが答えだ」。確信したヴェンダース監督は、上映終了を待つのももどかしく、バウシュに電話し「映画化の方法が分かったよ」と伝えたのだった。

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「ところが、撮影に入る2カ月前、ピナは急死してしまった。ショックだった。ピナがいなくなってしまった以上、映画は断念しなくてはいけないと思った」

 しかし、バウシュが亡くなった後も、ダンサーたちは泣きながら踊り続けていた。その姿に打たれたヴェンダース監督は、再び映画化を決意したという。

「ピナと一緒に映画を作ることはできないが、ピナのダンサーたちとともに、ピナのために、この映画を作るべきだと思ったんだ」

(文・写真 沢宮亘理)

「Pina ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち」(2010年、ドイツ・フランス・イギリス)

監督:ヴィム・ヴェンダース
出演:ピナ・バウシュ、ヴッパタール舞踊団

2012年2月25日、ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿バルト9ほかで全国順次公開。作品の詳細は公式サイトまで。

http://pina.gaga.ne.jp/

作品写真:(c)2010 NEUE ROAD MOVIES GMBH, EUROWIDE FILM PRODUCTION
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2011年08月05日

「ヒマラヤ 運命の山」 “超人”メスナー ナンガ・パルバート初登攀に迫る

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 ヒマラヤ山脈ナンガ・パルバート。標高8125メートルを誇る世界9位の高峰である。南面に位置するルパール壁は、標高差4500メートル。アイガー北壁の標高差が1800メートルだから、2.5倍に相当する。多くの登山家の野心をくじき、命を奪ってきた、世界屈指の難壁だ。

 ルパール壁からの登攀に初めて成功したのが、主人公であるラインホルト・メスナーと、その弟ギュンター・メスナーだった。しかし、生還できたのはラインホルトのみ。ギュンターは下山途中に雪崩にのまれ命を落としてしまう。一体、兄弟に何があったのか? 悲劇はなぜ起きたのか?

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 「ヒマラヤ 運命の山」は、世界初の偉業に挑んだ兄弟の苛酷な運命を、迫真の映像で描いた作品だ。原作はラインホルト・メスナー本人。メスナー自ら監督のヨゼフ・フィルスマイアーに企画を持ちかけ、映画化が実現した。メスナーはアドバイザーとして撮影に参加し、俳優たちの役作りや演技プランに貢献している。

 メスナーご指名のフィルスマイアーは、ドイツとソ連の苛烈な戦闘をリアルに描いた「スターリングラード」(93)の監督として知られるが、本作でも徹底的にリアリズムを追求。急変する天候と闘いつつ、7100メートルの高さまで飛行機を飛ばし、実物の山岳風景を撮影したほか、テントの素材やアイゼンが氷に食い込む音に至るまで、本物志向を貫いている。

 安易なCG(コンピューター・グラフィックス)に頼らないリアルな映像は、見る者を作品世界に引き込み、ヒマラヤの厳しさ、怖さを追体験させてくれる。主人公たちの体が凍え、動けなくなっていく感覚、死の恐怖などが、実感をもって迫ってくるはずだ。

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 物語は、兄弟の少年時代から、ルパール壁挑戦、そしてラインホルトのその後へと展開する。重要なのが少年時代のパートだ。登山に夢中だった二人の少年。しかし、注目されるのは常に兄のラインホルト。ギュンターの存在は兄の影に隠れがちだった。ギュンターはいら立ちを募らせる。この焦燥感がギュンターの運命を左右することになるのだが――。

 昨年公開された「アイガー北壁」(08)とともに、ドイツ山岳映画の高いクオリティーを示す秀作だ。

(文・沢宮亘理)

「ヒマラヤ 運命の山」(2009年、ドイツ)

監督:ヨゼフ・フィルスマイアー
出演:フロリアン・シュテッター、アンドレアス・トビアス、カール・マルコヴィクス

8月6日、ヒューマントラストシネマ有楽町、シネ・リーブル池袋ほか、全国順次公開。作品の詳細は公式サイトまで。

http://www.himalaya-unmei.com/

作品写真:(c) Nanga Parbat Filmproduktion GmbH & Co. KG 2009
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2010年12月02日

「白いリボン」 大戦前夜、村に満ちる疑心暗鬼 ハネケのパルムドール受賞作

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 従来の犯罪映画のパターンを打ち破り、観客に真の恐怖を突き付けた「ファニーゲーム」(97)、フランスを代表する女優に変態演技をさせ、何も知らずスクリーンに向き合った女性客を次々と途中退場させた「ピアニスト」(01)。妥協を知らぬ過激な作風が、常に“絶賛か拒絶”の両極端な反応を招いてきたミヒャエル・ハネケ監督。カンヌ国際映画祭の常連として数々の賞に輝きながらも、最高賞のパルムドールには手が届かずにいた。

 そのハネケがついに2009年、パルムドールを受賞。卓越した映画作家の評価を揺るがぬものとした。激戦を勝ち抜き、頂点を極めた作品は「白いリボン」。第一次世界大戦前夜、ドイツの小さな村で立て続けに発生する暴力的な事件を不穏なムードの中に描いた、ハネケ初のモノクロ作品である。

 最初の事件は、ある夏の日に起きた。村の医師が落馬して重症を負う。自宅前の木と木の間には針金が張られていた。犯人は不明。翌日、小作人の妻が腐った床を踏み外して転落死する。単なる事故か、それとも何者かによる作為か、真相は不明。謎は解かれぬまま、季節は秋へ。今度は男爵の長男がリンチを受け、製材所に逆さ吊りで発見される。これも犯人は不明のまま。冬になっても、男爵の屋敷への放火、障害児への暴力と事件が相次ぎ、村人たちの間に疑心暗鬼が広がっていく――。

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 男爵、執事、医師、牧師、小作人。それぞれを家長とする5家族が登場する中で、特に力点の置かれているのが、牧師の一家である。家長であると同時に、村人たちの指導者でもある父親は、家庭でのしつけも厳格を極め、子供たちの小さないたずらや無作法も見逃さず、むち打ちの罰を与えていた。罰を与える際には「純真で無垢な心を忘れぬよう」、子供たちの腕に“白いリボン”を巻き付けるのが決まりだった。

 牧師の長男と長女は、過度の緊張からか、いつも表情をこわばらせている。父親や教会に反感を抱いているようにも見える。一連の事件には彼らが関与しているのかもしれない。一方、牧師は子供たちの関与を疑いながらも、現実の直視を避けている気配がある。牧師は自分の厳しいしつけが、かえって子供たちの心をねじ曲げている可能性に気付いているようにも思える。

 映画の最終部でオーストリアとドイツが宣戦布告し、第一次世界大戦が始まる。19年後にはナチスが政権を握り、さらに6年後、第二次世界大戦が始まる。その時ナチスの兵士として戦っているのは、映画に登場する子供たちだと、観客は気付かざるを得ない。ドイツでナチズムがいかに育まれたか。「白いリボン」は、その一考察といえるかもしれない。

(文・沢宮亘理)

「白いリボン」(2009年、独・オーストリア・仏・伊)

監督:ミヒャエル・ハネケ
出演:クリスティアン・フリーデル、ブルクハルト・クラウスナー、マリア=ヴィクトリア・ドラグス、レオナルト・プロクサウフ、スザンヌ・ロタール

12月4日、銀座テアトルシネマほかで全国順次公開。作品の詳細は公式サイトまで。

http://www.shiroi-ribon.com/

12月4〜17日、東京・ヒューマントラストシネマ有楽町で、特集上映「ミヒャエル・ハネケの軌跡」を開催。デビュー作「セブンス・コンチネント」(89)から「白いリボン」まで全10作品を一挙上映するほか、ハネケに2年半密着したドキュメンタリー「毎秒[24]の真実」を特別上映。
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