2014年01月02日

「ILO ILO(英題)」アンソニー・チェン監督に聞く アジア映画の今(1)「小さなことに人間性が宿る。人々の生きざま描きたい」

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 アジアの映画人は今、何を模索し、どこを目指しているのか。新年連続インタビュー「アジア映画の今」。第14回東京フィルメックスで来日した監督3人に聞く。第1回はシンガポールのアンソニー・チェン(陳哲藝)監督。

 1984年、シンガポール生まれ。長編デビュー作「ILO ILO(英題)」が昨年、カンヌ国際映画祭でカメラ・ドール(最優秀新人監督賞)を獲得。台湾金馬奨(台湾アカデミー賞)の最優秀作品賞など4部門を獲得し、一躍注目を集めた。現在はシンガポールと英国を拠点に活動している。

 「ILO ILO(英題)」の舞台は90年代後半、アジア経済危機下のシンガポール。中流家庭に住み込みで働き始めたフィリピン人メイドと家族の物語だ。両親の不仲、父の失職などを背景に、メイドと少年の交流、家族の変化を描く。チェン監督は「小さなことに人間性が宿り、人に語りかける。社会の人間模様、人々の生きざまを描いていきたい」と語った。

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 主なやり取りは次の通り。

「私が一番良く知っている時代」

 ──最初の長編作品でメイドをテーマにした理由は。

 私は子供時代、メイドがそばにいた期間が長かった。4歳から12歳まで。成長過程で重要な時期、長い時間を一緒に過ごした。シンガポールでメイドを雇うことは、別にぜいたくではなく、ごく普通のこと。全家庭の半分は雇っていると思う。

 ──舞台設定は97〜98年。物語はどう作ったのか。時代背景を含めて教えてほしい。

 私は80年代に生まれ、90年代は子供だった。「あの時代を一番良く知っている」という自覚がある。今のシンガポールは大きく変わった。理解できないと思うほどだ。97、98年のことは忘れられない。アジア金融危機が起き、抑圧された、暗い時代だった。米国企業に勤めていた父も失業し、その後より良い仕事には就けなかった。私の人格形成に大きな衝撃を与えた時期だった。

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「シンガポールは変わった。理解できないと思うほど」

 ──シンガポールのどこが最も大きく変わったと思うか。

 (高級ホテル・レジャー施設の)マリーナベイサンズが街の中心に完成した。人気のスポットで、日本人はみな泊まりたがるでしょう?(笑)。なぜ街の真ん中にカジノを作るのか、私にはまったく理解できない。シンガポールの役人は分かっているだろうか。普通カジノは郊外に作るものだ。あれにより街の外観、人々の価値観も変わった。資本主義的傾向が強まり、昔よりずっと金満体質になっている。

 ──メイドと家族の物語は、監督の中にずっと存在し、描きたいと思ってきたのか。

 子供時代は無垢でナイーブだ。楽しかったこと、食べ物がおいしかったこと、遊んだことなどは記憶に残る。だが、振り返って気付くこともある。当時、世の中の人間関係は単純だと思っていたが、大人の世界は複雑だ。一見するのと大分違うと気付いていく。

 私の母はとても優しく、心温かい人。映画で描いたより(メイドとの関係は)ずっと良かった。ただ、一度だけ「はっ」と思ったことがあった。私が3年の英国留学から帰った時、私のおばが「食事をに来ないか」と誘ってくれた。母は聞くなり「私の子供よ。まずご飯を食べるのはうちでしょう」と釘を刺した。恐らくすべての女性には、子を守ろうとする衝動や直感があり、自分のものを守り、区別する傾向があるのではないか。

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「幼いころ、チャン・イーモウの作品を観るのが好きだった」

 ──映画の道に入ろうと思ったきっかけは。

 理由は分からない。15歳の時、すでに「映画監督になりたい」と思っていた。子供のころはジャッキー・チェン(成龍)のアクション、香港コメディー、警察もの、ヤクザ映画、ホラーなどを見ていた。ただ、私は中でも週末の午後、テレビで放映される映画を見るのが好きだった。それは田舎が舞台の中国映画で、いつも同じ女優が出ていた。後に女優はコン・リー(鞏俐)で、初期のチャン・イーモウ(張芸謀)監督の作品と知った。

 ──成長するにつれ、どんな作品が好きになり、影響を受けたか。

 15歳ごろからイタリア、フランス、日本、台湾映画などを見るようになった。映画に対する固定観念を変えてくれた。自己形成にも大きく影響したと思う。

 15歳の時、今思えば世間知らずなことをした。インターネットでUSC(南カリフォルニア大学)、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)、NYU(ニューヨーク大学)など、世界の有名な映画学校に手紙を書き、どうすれば入学できるか調べた。ところが学費が20万ドル(約2000万円)もかかる。法学や医学を勉強するより高い。シンガポールの中流家庭にとっては大金だった。そこで17歳の時、シンガポールで唯一映画を教える学校、義安理工学院の映画コースに入学した。

 ──監督の作品は人物、状況描写がとても細かい。自身はどんな子供だったか。

 いたずら好きではなく、どちらかといえばいじめられっ子。観察力はあったかもしれない。物分かりが早い子だった。今もそうだが、細かいことに目が行く。部屋に入ると、どう人が動き、どういう身振りで、どう関係しあっているか、一瞬で把握しようとするくせがある。

 細部に注目するのは、私の映画作りの特徴かもしれない。戦争、殺人、暴行など大きな事件を扱う監督もいる。しかし私は、小さなことにこそ人間性が宿り、人に語りかけるものがあると思う。

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「映画を作り続けることは、痛みを好きになること」

 ──シンガポールの若手映像作家の製作環境について教えてほしい。市場は小さいが、どんな夢を描いているのか。

 (大学時代の)同級生は、みな映画の道をあきらめたと思う。映画製作は大変苦しい職業だ。貧しさに耐えなければならず、痛みも伴う。映像業界の友人はCMを撮ったりしている。お金を稼げるからだろう。映像の世界にいても、お金に関心がある人が多い。私は違う。映画作りはお金より、心にかかわる仕事だと思う。

 ──次回作の構想は。

 まだ決まっていない。こちらが教えてほしいぐらい(笑)。唯一分かっているのは、社会の人間模様、人々の生きざまをテーマにすること。それ以外どうなるか分からない。空から脚本が降ってきて、それを撮るだけなら楽だろうが、人生そうはいかない。

 楽をして作る映画にいいものはない。いいものにするため、戦い続け、痛みに耐えなければならない。苦しむことを覚悟している。映画を作り続けることは、痛みを好きになることではないか(笑)。

「アン・リーは心配し、ホウ・シャオシェンは『大丈夫』と」

 ──台湾金馬奨を受賞後、アン・リー(李安)監督、ホウ・シャオシェン(侯孝賢)監督と話し、何が一番印象的だったか。

 ホウ監督は「君の製作姿勢なら大丈夫。映画作りを続けられるよ」と言ってくれた。「映画に対する姿勢の問題だ」と。アン監督は心配していた。「こんなに高いところからスタートするのでは、次が大変だよ」と気遣ってくれた。「いろいろな困難が待ち受けているだろう。周囲の期待も大きい。僕が君の年齢のころは、こんなに賢くなかった」と。本当は彼らにもっと頻繁に会い、アドバイスが欲しい。切迫した気持ちだ。

 ──シンガポールを今後も拠点にし、描くつもりか。

 私は今シンガポールとの間を行き来しつつ、妻とロンドンで暮らしている。シンガポールにとどまることだけはしたくない。人口500万人のとても小さな場所にいると、自分が成長しない気がする。

 ロンドンにはあらゆる才能があふれている。演劇、ダンス、オペラ、絵画。さまざまな分野の才能がある人が活躍している。自分がとてもちっぽけで「他の人にはかなわない」という気持ちにさせてくれる。それは自分にとってとても良いことなんだ。謙虚になることが自分を成長させ、世界で戦い続ける動機になる。シンガポールではほめられすぎる。私は逆に今、常に挑戦状を突きつけられたいんだ。

 シンガポールに生まれ育ち、一番良かったのはバイリンガルであること。英語を第1言語で学んだことは大きい。私はアジア的なセンスを持ちつつ、英国でも教育を受けた。東洋と西洋の両方を吸収している。シンガポールは多文化、多言語国家。人々は適応能力が高い。世界中どこへ行ってもなじめる。私の映画もそうだと思う。

(文・写真 遠海安)

作品写真提供:東京フィルメックス事務局
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posted by 映画の森 at 09:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | シンガポール | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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